カトリック高槻教会

高山右近について

1.生涯

高槻城主 ユスト高山右近之像

高山右近は、1552年、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。6歳から大和の国 沢城(現在の奈良県宇陀郡榛原町)に住み、12歳のときに父飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)、その後高山親子は芥川城を経て、1570年頃高槻城に入り、1573年父飛騨守が城主となり、同年続いて右近が21歳で高槻城主となりました。

「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立された・・・五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス「日本史」)。1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4,000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれた。同年、高槻の領民25,000人のうち、18,000人(72%)がキリシタンでした。

ところが、1578年に右近の主君である荒木村重が信長に謀反、右近は荒木への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようとするが失敗、一方信長は右近が自分に降らなければ、宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅した。右近は城内にあった聖堂にこもり、祈り、ついに武士を捨てる決心をし、着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長のところへ向かった。結果的には右近の家臣によって高槻城は無血開城、信長に投降したので、信長は右近に再び高槻城主として仕えるように命じ、人質も解放され、この難局はぎりぎりのところで解決したのでした。

高槻城主 ユスト高山右近之像

1582年本能寺の変で信長が倒れ、安土城は焼失、右近は安土のセミナリオを高槻に移し、また大坂築城に合わせ大坂に教会を建てるのに尽力した。信長の死後秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高など秀吉の側近の多くが入信し、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めた。1585年、右近は明石6万石に転封、明石教会を建設しました。

しかし、1587年、秀吉は突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫ったが、右近は「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」と答えたため、明石の領土を剥奪され、追放され、流浪の身となりました。

淡路島・小豆島などを経て1588年、加賀藩前田利家の招きにより金沢に至り、ここでは「南坊」と名乗って、茶道と宣教に没頭しました。

1612年、徳川幕府はキリシタン禁教令を発布、1614年には右近の国外追放令が出された。右近一家は2月15日雪の中を徒歩で京都に向い、坂本を経て大坂から船で長崎に着いた。長崎から小さな船でマニラへ向かい、43日後に到着、ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を大歓迎しました。

しかし、苦難の道中と不慣れな南国の風土・食物のために身体を弱め、到着後40日ほどで熱病にかかり、1615年2月3日、63歳の生涯を閉じた。マニラ市により葬儀が行われ、イエズス会聖堂に葬られた。いま、マニラの日比友好公園には、高槻城跡公園と同じ高山右近像が立っています。


2.人物や行い

高槻城主 ユスト高山右近之像

ユスト高山右近の生涯は、いかなる困難にあっても福音に忠実に従う生き方でした。「高山右近は、キリシタン大名高山右近といわれているが、彼の偉大さは、その大名の資格にではなく、彼の完璧な信仰生活にある。海老沢有道博士は、右近について次のようにいっている。『他領を侵し、覇を唱えるのが英雄というならば、彼は戦国の敗残者の一人にすぎないであろう。しかし、彼の敗残は、人生の勝利の姿であり、彼こそ身を以て、人間として生きた英雄であった。』」(チースリク「高山右近史話」)

「ジュスト右近殿は、非常に活発で明晰な知性と、きわめて稀にみる天賦の才を有する若者であった。・・・またその大いなる徳操によって都地方の全キリシタンの柱となるに至った。また彼はいとも多才、かつ能弁であったので、彼がデウスのことどもを語る際には、それを聴く者はすべて、家臣たちも見知らぬ異教徒たちさえもそれがため驚嘆したほどであった」(フロイス「日本史」)。

高槻城主 ユスト高山右近 壁画

右近は父ダリオと共に善政を敷き、今でいう「福祉国家」を形成した。「彼はそこで毎年、いろいろなことの世話にあたる四人の教会の執事を任命し、彼らは異教徒改宗のことに係わったり、貧者を訪問したり、告白や死者の葬儀のことで司祭たちに知らせたり、各地からそこに来た客たちをもてなしたりした。しかし彼自身もまたこの教会委員の職を帯び、他の委員たちに率先し、自ら範を垂れて彼らを導いた。・・・ある戦いで大勢の寄る辺ない寡婦や孤児が残された。ダリオは、次から次へと全員を世話し終えるまで休むことがなかった。その世話ぶりはいとも熱心で幼い者はまるで彼の子供のようであり、婦人たちは彼の近親者のようであった。それゆえ、その地で人々は皆、彼を自分の父のように見なした。・・・その地で二人の貧民が死亡した。ダリオはさっそく一台の棺を製作させ、真中に白い十字を付した黒緞子の棺布でおおい、ダリオと城主であるその息子右近殿は、棺を担う役を自ら引き受けた」(フロイス「日本史」)。

高山右近は「利休七哲の一人」であり、ロドリゲスは「高山ジュストはこの芸道で、日本における第一人者である」と言っている。右近の茶の湯はキリシタンの茶の湯であり、徳操、叡智を養う場、祈りの場でもありました。


3.高山右近の列福運動

高山右近の列福運動は、右近が逝去した17世紀当時に始まっています。

近年では、終戦後田口芳五郎大阪司教(後に枢機卿)によって現在の大阪大司教区に「高山右近列福運動本部」が設立され列福運動が推進されてきました。2009年度臨時司教総会からは、列福事由を「証聖者」から「殉教者」に切り替え、2015年の逝去400周年に合わせて列福されることを目指し、日本司教団として右近の列福運動が推進されて参りました。そして2016年1月22日、教皇フランシスコにより、右近が福者に承認されました。


◇テレビ番組「心のともしび」特別放送録画◇

高山右近の列福調査委員会の委員長も務め、列福運動に尽力された溝部修名誉司教による「高山右近 没後400年 ~列福に向けて~」と題するお話しを、「心のともしび」特別放送録画で視聴することができます。(溝部名誉司教は2016年2月29日に帰天されました)

テレビ番組「心のともしび」特別放送録画
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